2009年7月22日
関ヶ原の戦い本戦まで
7月1日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い、これに高台院は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ止む無く西軍に身を投じている。こうして大坂城には主に中国・四国・九州の諸大名が集結し、およそ10万の兵力となった。しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家や鍋島直茂のように早くも東軍への内応を画策する武将もいた。
7月17日毛利輝元が大坂城西の丸に入城して、西軍の総大将に就任。ここに至って三成は挙兵宣言を発し、まず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動した。しかし、加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなど失敗に終わった。翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、輝元の名で開城要求を勧告した。城将の一人木下勝俊は要請に応じ伏見城を退去したが、元忠は拒絶。明くる7月19日から伏見城の戦いが行われる。伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した。この間の7月21日、増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による13か条からなる家康弾劾状『内府ちがひの条々』が諸大名に発せられている。ただし、これが東軍側に伝わるのは小山評定の後であった。
伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である、織田秀信が城主として拠っていたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功する。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
三成挙兵等がありました。もっと詳しく調べたいです。
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